─魔王─

 ***の街路を歩く貴方。街の中心となる大通りにしては、若干細めといえる道の左右には雑多な露天が並び、荒々しい掛け声が響いている。
 貴方は宿を探すため、軽く背嚢を抱え直して人ごみを押しのけるように進んでいく。
 と、その時。
 唐突に周囲の喧騒が途切れた。
 そして、自分を包んでいる人々の動きが、まるでぜんまいが切れた人形のようにぴたりと止まった。
(……な、んだ?)
 風景はまるで人の手によって描かれた絵のように生気を失い、街路に歩いていたはずの人々は微塵の動きもみせない。この中で動いている色は貴方と、そして──
「今日は一人か。不作だね」
 ──真上からの声。
 貴方は反射的に上を見上げる。そこには全てが色褪せた世界の中で唯一といっても良い、深緑の色を纏った人影が浮んでいた。
「お前さん、悪くないね。停滞の概念にも打ち勝つ、強い存在概念を持っている」
 長い、長い髪。己の身体よりも長い黒髪をもつその人影は、艶やかさと快活さ、そして妖しさが交じり合ったような独特の笑みを浮べ、言う。声色も同様だ。
「我は古き民の系譜に連なる者、魔女ベルナデッド・イェハルーダ。イェハルーダ、と呼んどくれ」
 女は静寂に包まれた街路にゆっくりと降り立つ。音は当然、土埃すら舞い上がらない。そして彼女が地に爪先を触れさせると同時に、周囲で硬直していた人々の姿が一瞬にして掻き消えた。
「なに、本当に消えたわけではないよ。安心おし」
 長い髪が地面についている事に気にした様子も無く、彼女は細く長い瞳をしならせてこちらに近づいてくる。
「今日、お前さんは我に選ばれた。『魔王』という概念の素体となる者としてね」
 一歩、一歩と進み、貴方の真正面で立ち止まる。
「お前さん、『魔王』という言葉は判るかね? それがどういった存在なのか」
 自分が置かれている状況がつかめずに困惑しきっていた貴方は、満足に言葉を返す事もできない。ただ、魔王という語感から、幾つかの言葉を思い浮かべただけだった。
 ──魔王。
 子供向けの御伽噺に出てくる絶対悪。
 忌まわしき者、呪われた者、邪悪な者。
 人に仇なし──そしていずれ討たれる者。
「そう、そうだ。魔王とは人に忌み嫌われるために生まれた概念の塊。では、なぜ彼等は人に恨まれ、疎まれるのか。判るかね?」
 女は貴方の思考をそのまま声として聞いていたかのように、間髪入れず答えて、そしてまたも問う。
 魔王が何故疎まれるのか。
 簡単だ。魔王は邪なる存在を束ね、人々に害を成す存在だからだろう。大抵の物語などでは、魔王とはそういう存在になっている筈だ。
 だが、いつの間にか貴方の背後に廻っていた女は、貴方のその考えにくすくすと笑う。
「外れ、だ。彼等は人に忌み嫌われる為に生まれたからこそ、なのだよ。理由などありはしないのだ。人々の小さな心の闇、恐怖の欠片から生まれ、蓄積し、そして形となる概念。それに名をつければ『魔王』となる。…… そして、我はその魔王を生み出す者。どれ、ちょいとこっちを向いとくれ」
 声と同時に、ぐいと頭を掴まれた。逆らう間もなくあっさりと首が捻じれ、同時にこちらの口が彼女の唇で塞がれる。
 そして、女の唇から何とも形容のし難い、生温い塊が注ぎ込まれた。
(……ッ!!)
 慌てて女を振り解いて距離を取り、急ぎ口の中のものを吐き出そうとして──その塊が口の中でどろり溶け、例えようの無い『何か』が全身に行き渡る感覚に身体が震えた。
 深緑の魔女は貴方の様子にくつくつと一通り笑ったあと、
「これで、お前さんは『魔王』となった。人に恨まれ恐れられ、そして嫌われ蔑まれる存在にな。お前さんの姿を見た者には、理由無き敵意が生まれる。人と敵対する者、神聖な神と対極にある概念。それが魔王だからね」
 反射的に彼女に掴みかかろうとするが、魔女が軽く片手をあげただけで、身動き一つ取れなくなる。
「そう熱り立つな。お前さん、我とゲームをしないかね? なに、簡単なゲームさ。お前さんは今から魔王として、敵意にかられ襲ってくる人間どもと戦うことになるだろう。だが、この魔王という概念はある特徴をもってる。人が魔王を克服させれば、その概念は消滅するんだ。つまり、負けさえすれば普通の人に戻れるのさ。
 だが、それだとつまらないだろう? だからルールはこうだ。お前さんが誰にも敗れる事無く我の居るところにまで辿りついたなら、お前さんの勝ち。そういうゲームさ。その時に、我が直々に魔王の概念を取り払ってやろう」
 馬鹿馬鹿しい。そんなゲームなどに付き合う必要がどこにあるというのだろうか。
「嫌ならば、適当に負けてしまえばいいんだよ。我は…… そうだな。*******、という街でお前さんが来るのを待っていよう。そこまで無事に辿りつく事ができたなら、ちょっとしたご褒美をあげよう。ほんのちょっとした、ご褒美さ」
 魔女はふわりと空中に浮かび上がると、軽く指を鳴らしてみせる。するとそれが何かの合図であったかのように、色褪せていた世界に色が戻り、消えていた人々が唐突に現れ、そして動き出す。
「では、*******で待ってるよ。魔王殿」


 神田ユウ達は『魔王』になってしまった!